GWやお正月など混雑する時期にUターンラッシュに巻き込まれた経験はありますか?混雑時期に混雑を回避する裏技があったら教えてください。
Uターンというわけではないが、混雑の中での長距離旅行を思い出す。
もう30年近くも前の話だが、鉄道全盛の時代にはいつも列車が混んでいた。僕にとって旅は憧れであったから、お小遣いを貯めては鉄道でどこかに出かけたものだった。
一番遠くへ出かけたのは、川崎に住んでいた叔母の家に行った時だ。
すべての行程の切符の予約を済ませてあったのだが、悪いことに台風がやってきた。凶悪な台風で、札幌の隣の江別あたりは水害で大変なことになった。函館本線が不通になり、当然予定の日程では行けなくなった。
仕方なく日程をずらして出かけたが、もちろん座席の予約はまったくとれなかった。
朝、旭川を急行「かむい」で出発したが、まだ函館本線の岩見沢ー札幌間は不通で、南幌経由のバス代行運転だった。札幌でぶらぶらと時間を潰し、夕方の特急「北海」で函館に向かった。当時よく見られる風景だったのが、通路に新聞を敷いて酒盛りをするおじさんたちだった。10両編成の一番前または後ろが自由席で、僕はかなり早く改札に並び、一気に走ってホームに行っていたので座席を取ることができたのだが、社内販売は車両の入り口で戻ってしまうし、トイレに行くのも結構大変だったものだった。
夜中の青函連絡船でまたひとしきり走って席を確保し、青森では時刻表を確認して自由席のメリットを駆使、接続の良い特急「みちのく」よりも30分ほど後に発車するが経由の関係で上野には先に着き座席も良い特急「はつかり」にゆうゆうと席を確保して一路上野へという感じで、わりと早めの行動と情報収集で席を確保していたものだった。
帰りも同様に早め行動で座席を確保しつつ戻ってきたのだが、どうしようもなかったのが函館からだった。上野から青森に到着する二編成を臨時を含めて二便の連絡船でさばいた函館で、接続する列車は特急「北海」一編成のみという不合理なダイヤ。全車ギッシリでデッキにも人が立っている状態だ。夜中の青函連絡船移動、朝5時台の発車のデッキで立ちっぱなしはかなり辛かった。座席を確保できたのはやっと札幌駅で人が入れ替わる時で、そのあと旭川までも通路に人が立っている状態だった。
今の北海道では通勤列車以外はめったに立っていくことなどないが、昔はわりとよくあった。全席指定の特急列車も多く、その場合に「立席特急券」というので乗ったこともある(今でも一部列車で発行されることがあるらしい)。
考えてみれば、当時の特急は道内でもほぼ10両編成で、東北・常磐線の特急は15両編成もめずらしくなかった。今よりずっと運転数が少なかったし、飛行機の利用はまだぜいたくだった。その後10年ほどですっかり旅客は飛行機にシフトし、新幹線が津軽海峡を渡るための準備が始まって今年はとうとう夜行寝台特急も編成減となる。
混雑の中での長距離旅行は大変だったが、今となっては懐かしい思い出だ。どんどんスマートになっていく今の鉄道を見ているとあの頃の風情が永久に失われたようでなんだかとても残念な気持ちもするのである。
そういえば、岩見沢ー札幌間の不通による不乗証明をもらった札幌駅と精算した上野駅の窓口の係員はどちらも穴あきガラスの向こうで不景気そうな顔をしてそろばんをはじいたりしていたっけ。国鉄といえば役所だったのだな。これも懐かしい風景のひとつである。
[いいですね]
昔の鉄道の風景、懐かしいですね。
昔の列車って、こう、四角い4人掛けのボックス席で。
小さいステンレス製の灰皿が必ず窓の下に備え付けられてて
不機嫌そうな顔したおじちゃんとか、やさしそうなおばちゃんとかと
相席になったものでした。
冷凍ミカンとか買って、小さいころ母の実家に行くときによく乗りました。
子ども3人を連れた母が、席を確保するのにすごく必死で車両に乗り込んでいたのを覚えています。
あの頃の鉄道の利用率って、高かったですよね。
車や飛行機よりもやっぱり鉄道だったような気がします。
国鉄といえば役所だったというのがとても素敵な余韻です。
投稿情報: えび | 2008/05/17 17:52
そうそう。あの固定のクロスシート。今でも古い車両に残っていますが、ローカル線で出会うと懐かしくてうれしくなります。
窓の下にちょっとした出っ張りのテーブルがあって、その下には栓抜きがついていて、テーブルの上に冷凍みかんとビニール製のたよりない容器に入ったお茶が載っていたりして。冷凍みかんも駅弁もたいして美味しいものではないんですけど、列車の中では特別に美味しかったのですね。
座席とるのはなかなか大変だったけど、それも懐かしい思い出ですね(^^)
投稿情報: んちば | 2008/05/18 08:45