「計算不可能性を設計する」の中に出てきた論理エンジンに興味を持って、書店で何冊かの本をみてこれを選んだ。
ロジカル・シンキングの本は他にも読んだことがあるが、たいていはテクニックをいろいろ紹介しているものが普通で、そんなに簡単にいろんな事ができれば苦労はしないと思ったり、あまりにも当たり前のことがかかれていたりで、ちょっと違うなあと思うことが多かった。大抵はビジネス書の範疇にあって、基本的に「ビジネスに生かすには」という観点で書かれているのも普通だ。
しかし、この本はちょっと違っている。
著者は予備校の人気講師である。現代文という入試科目を教える中で、論理的に考えるくせをつけることが現代文以外の成績の向上にも役立つことに気づき、論理エンジンという論理的思考を身につけさせるメソッドを作り出した。
教育畑の人が書いたものだからビジネスのことは書いていない。論理的に考えるというのはどういうことなのか、それはなぜ必要なのかからはじまり、論理的に文章を読むための基本はなにか、論理的思考力を鍛えるにはどうしたらよいのかということを繰り返し説明している。
論理的に考えることができないということが社会的にどういう問題をはらんでいるのかについても繰り返し主張しているのだが、そのなかに僕にとってはかなり衝撃的な言葉があった。
この言葉から、あることを思い出した。
数年前のことだが、僕は新木場のとある顧客企業に数ヶ月通っていた。葛西のホテルから東西線で東陽町に行き、そこから新木場循環のバスに乗る。通っていた会社は新木場の海辺にちかい場所で、新木場の駅より先でバスを降りる。
バスは新木場の駅で時間調整のために数分停車する。そこで毎日目にしたのはその頃テレビで盛んにカッコ良さげな単発派遣のCMをやっていた大手派遣会社のロゴのついたバスだった。新木場には物流大手のセンターがある。そのバスは派遣という名前の日雇い労働の若者を大量に送り込んでいるのだ。僕の都営バスにもそういう仕事についていると思しき若者が何人も乗っていたようだった。
ある日のこと、後ろの席の男女が何日か前にも僕の後ろの席に乗っていたと気づいた。毎日同じ時間帯のバスに乗って通っているのだから見たことがある人がいても不思議ではないのだが、バスの中で後ろの人をわざわざ振り返ってみることはあまりないわけで、僕がその二人に気づいた理由は別のところにあった。
なんとなく聞こえてきた会話に、「ん?」と思ったのである。聞いたことのある話なのだ。いや、ほとんど前に聞いたのと同じような会話なのである。
彼/彼女が話していたのはよくある職場の不満であった。前に聞いた話が記憶に残っていたのは、その中身はたらたらとひとつの不満を同じような言葉で繰り返しているだけで、なぜそうなんだろうとかどうしたらいいのだろうとか、こうしたらどうだろうというような一歩踏み込んだ言葉がでてこないからだった。まあ、ほんの数分の会話が耳に入っただけだから、そんな会話もあるのだろうなあと思いながらも印象に残っていた。その同じ会話が数日経ったあとのバスのなかで繰り返されていたのだ。
僕は聞きながらこれはかなりまずいなと思っていた。
人は誰でも問題があったらその原因や解決策を考えるのが普通だと思っていた。実際に問題を解決することができなくても、会話の中にはそういう言葉がいくつか出てくるものである。僕達の世代は会社や上司の問題点の分析と当面の対策が酒の肴になるくらいだ。だからまったく深まらない会話を聞いていてショックだった。言葉の種類の乏しさと思考の浅さのようなものは直結するのではないかと感じ、駅前で派遣会社のバスに乗り込む若者たちの姿と重ねてひょっとしてそういう人々が増えているのだろうか、いや、ひょっとして自分もどこかで思考停止しているのだろうかと思ったのだった。
「語彙不足はファシズムを生む」という言葉には飛躍があるように思われるが、要するに語彙が少ないことが思考停止につながり、それは人を本能的行動に駆り立ててしまうということなのだ。目の前のことしか考えないことが、いつか来た道につながっているのである。僕が都営バスのなかで感じたのはこういう時流に対する直感的な怖れだったのではないかと思う。
ロジカル・シンキングという言葉を聞いたとき、なんとなく新しい思考法のように感じてしまうが、つきつめれば筋道を立てて考えるということに尽きる。自分で筋道を立てて考えられる力を養うことは間違いなく自分を変えるだろう。この本にはそういうことが事が書かれている。テクニックに走りがちな他のロジカル・シンキング本と異なるのはそういう主張が入っていることである。
日々、考えて拙い文章を書いてみる。これもひとつのトレーニングになっているらしい。
本を読み、それについて語る。これが楽しいというのはなかなか健全なことなのである。
自分を変える!ロジカル・シンキング入門 (中経の文庫)
出口 汪


by G-Tools
ロジカル・シンキングの本は他にも読んだことがあるが、たいていはテクニックをいろいろ紹介しているものが普通で、そんなに簡単にいろんな事ができれば苦労はしないと思ったり、あまりにも当たり前のことがかかれていたりで、ちょっと違うなあと思うことが多かった。大抵はビジネス書の範疇にあって、基本的に「ビジネスに生かすには」という観点で書かれているのも普通だ。
しかし、この本はちょっと違っている。
著者は予備校の人気講師である。現代文という入試科目を教える中で、論理的に考えるくせをつけることが現代文以外の成績の向上にも役立つことに気づき、論理エンジンという論理的思考を身につけさせるメソッドを作り出した。
教育畑の人が書いたものだからビジネスのことは書いていない。論理的に考えるというのはどういうことなのか、それはなぜ必要なのかからはじまり、論理的に文章を読むための基本はなにか、論理的思考力を鍛えるにはどうしたらよいのかということを繰り返し説明している。
論理的に考えることができないということが社会的にどういう問題をはらんでいるのかについても繰り返し主張しているのだが、そのなかに僕にとってはかなり衝撃的な言葉があった。
である。語彙不足はファシズムを生む
この言葉から、あることを思い出した。
数年前のことだが、僕は新木場のとある顧客企業に数ヶ月通っていた。葛西のホテルから東西線で東陽町に行き、そこから新木場循環のバスに乗る。通っていた会社は新木場の海辺にちかい場所で、新木場の駅より先でバスを降りる。
バスは新木場の駅で時間調整のために数分停車する。そこで毎日目にしたのはその頃テレビで盛んにカッコ良さげな単発派遣のCMをやっていた大手派遣会社のロゴのついたバスだった。新木場には物流大手のセンターがある。そのバスは派遣という名前の日雇い労働の若者を大量に送り込んでいるのだ。僕の都営バスにもそういう仕事についていると思しき若者が何人も乗っていたようだった。
ある日のこと、後ろの席の男女が何日か前にも僕の後ろの席に乗っていたと気づいた。毎日同じ時間帯のバスに乗って通っているのだから見たことがある人がいても不思議ではないのだが、バスの中で後ろの人をわざわざ振り返ってみることはあまりないわけで、僕がその二人に気づいた理由は別のところにあった。
なんとなく聞こえてきた会話に、「ん?」と思ったのである。聞いたことのある話なのだ。いや、ほとんど前に聞いたのと同じような会話なのである。
彼/彼女が話していたのはよくある職場の不満であった。前に聞いた話が記憶に残っていたのは、その中身はたらたらとひとつの不満を同じような言葉で繰り返しているだけで、なぜそうなんだろうとかどうしたらいいのだろうとか、こうしたらどうだろうというような一歩踏み込んだ言葉がでてこないからだった。まあ、ほんの数分の会話が耳に入っただけだから、そんな会話もあるのだろうなあと思いながらも印象に残っていた。その同じ会話が数日経ったあとのバスのなかで繰り返されていたのだ。
僕は聞きながらこれはかなりまずいなと思っていた。
人は誰でも問題があったらその原因や解決策を考えるのが普通だと思っていた。実際に問題を解決することができなくても、会話の中にはそういう言葉がいくつか出てくるものである。僕達の世代は会社や上司の問題点の分析と当面の対策が酒の肴になるくらいだ。だからまったく深まらない会話を聞いていてショックだった。言葉の種類の乏しさと思考の浅さのようなものは直結するのではないかと感じ、駅前で派遣会社のバスに乗り込む若者たちの姿と重ねてひょっとしてそういう人々が増えているのだろうか、いや、ひょっとして自分もどこかで思考停止しているのだろうかと思ったのだった。
「語彙不足はファシズムを生む」という言葉には飛躍があるように思われるが、要するに語彙が少ないことが思考停止につながり、それは人を本能的行動に駆り立ててしまうということなのだ。目の前のことしか考えないことが、いつか来た道につながっているのである。僕が都営バスのなかで感じたのはこういう時流に対する直感的な怖れだったのではないかと思う。
ロジカル・シンキングという言葉を聞いたとき、なんとなく新しい思考法のように感じてしまうが、つきつめれば筋道を立てて考えるということに尽きる。自分で筋道を立てて考えられる力を養うことは間違いなく自分を変えるだろう。この本にはそういうことが事が書かれている。テクニックに走りがちな他のロジカル・シンキング本と異なるのはそういう主張が入っていることである。
日々、考えて拙い文章を書いてみる。これもひとつのトレーニングになっているらしい。
本を読み、それについて語る。これが楽しいというのはなかなか健全なことなのである。
自分を変える!ロジカル・シンキング入門 (中経の文庫)
出口 汪

![[図解]<出口式>論理力ノート](http://images.amazon.com/images/P/4569656250.09._SCTHUMBZZZ_.jpg)




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”語彙不足はファシズムを生む”と言われてもピンときませんでしたが、「語彙不足の結果の本能的行動」という説明に納得しました。
今、何冊かの本をツマミ読み(?)していて、その中の一冊が「論理トレーニング101題」という本です。
何かを考えた時、語彙を軽んじれば異なったアウトプットがなされてしまうし、そもそも物事を考えるためには、充分で適切な語彙が必要である、ということを前述の本を読みながら考えていました。
Voxは論理トレーニングを実践するのに良いな、と思っているんですが、自分自身がすでに思考停止の域に入っている感もあり、なかなか難しいものです。
以前書いた記事なんですが、話題のループということではこんなことがありました。
都営バスの男女や、記事に書いた私の友人は、その不満要因が取り除かれてしまうと、自分の立ち位置がわからなくなってしまう状況なのかもしれないな、なんてことをチラリと思いましたw
投稿情報: Laka | 2008/06/04 18:52
>都営バスの男女や、記事に書いた私の友人は、その不満要因が取り除かれてしまうと、自分の立ち位置がわからなくなってしまう状況なのかもしれないな、なんてことをチラリと思いましたw
なるほど。そういう面はよくありそうですね。内的な基準が薄弱で外的要因で自分の位置決めをするのか。人には多かれ少なかれそういう側面はあるものですが、そればっかりだと辛くないのかなあと思いますよね。
本人はずっとそういうふうに育って来たからそれがあたりまえになっているのでしょうか。だとしたらちょっとまずいですよね。
やっぱり自分で考える力をつけるというのは大切なんですね。
「ファシズム」については、もう一つ興味深い事が書かれていました。
「清潔指向」が怖いということです。清潔にするというのは生きるための基本要件で、本能的欲求だから、「清潔」には人は抗えないところがある。本能的な清潔指向は怖ろしいことに差別を生む。ろくに考えない「清潔指向」が差別を生み、その結果が第二次大戦のドイツで起きたことだ。というわけです。
学校でのいじめの問題もこの形がよくあると思われるのですが、その裏にはどこかおかしい潔癖症(とにかく家からゴミをなくしたい。ゴミステーションに捨てたゴミはもう自分の責任ではないと言うような)の親がいるのかもしれないと思いました。こういう行動って想像力が足りないのだと思っていましたが、それ以前に考えていないということなのですね。自分は正しいと思っている基準が本能というのはかなりまずい。
最近の小学生の携帯を禁止なんて議論も同じようなヤバさを感じます。
なんでも規則を決めたがるのも危ないですよね。規則を決めた途端に思考停止してしまうことがよくあるので。
こんなふうにいろんなことを考えることができる本で、なかなかおもしろかったです。
考えるのって楽しいですよねえ(^^)。
投稿情報: んちば | 2008/06/04 19:42
最近、自分がイラついた時や、自分が恥ずかしい思いをした時でないと子供を怒らない親が増えているように思うのです。
逆に言えば、自分がイラつきもせず、恥ずかしいとも思わなければ子供を叱らない。
例えばスーパーマーケットで。
店内で騒ぐ子供の煩さが自分の限度を超えると「うるさい!いい加減にしなさい!」と怒るけど、自分の限度を超えなければ叱らない。
店内を子供が走り回って騒いでいる時、他人の不愉快かつ冷たい視線を浴びて”自分が”恥ずかしいと感じれば、そこでようやく子供に「静かにしなさい!」と怒る。
でも、他人の視線を冷たいとも不愉快そうだなとも感じず、むしろ「微笑ましいと思われている」と感じれば、子供を叱ることもない。
スーパーの中で子供が騒ぐこと、走り回ることによって生ずる危険や他人が蒙る迷惑を想像する力がないってのは世も末…などと思ってましたが、そうか…想像力云々ではなく、善悪の判断基準が”自分の”本能であるために、そこから先に進もうとしていない、もしくは進めないということですか。
なるほど。
しかし、これだと子供自身の想像力や思考も悪い意味で親(のダブルスタンダード)に振り回されてしまい、不のスパイラル確定の予感w
>小学生の携帯を禁止
規則として決めたとたん、本来手段であったはずの「小学生は携帯を持たない」という行動が目的になってしまい、その結果、本来の目的を果たせないということがありますよね。
日頃気になる、車の方向指示器や自転車の夜間点灯の不履行も同じ事ですし。
>ろくに考えない「清潔指向」
”ろくに考えない”という言葉がシンプルかつ的確で目からウロコが落ちましたw
ろくに考えない清潔志向は商業的に利用できるので(ドイツでは政治的に利用されたのですね)、いろいろ考えてもらっちゃ困ります。
企業は、洗浄剤を売ったら保湿剤も売りたいのです。
部位別専用洗剤も売りたいのです。
考えるって楽しいけれど、考えているうちにだんだんダークサイドに入り込んでしまう汚れた自分に少し鬱です(;´Д`A ```
投稿情報: Laka | 2008/06/05 15:02
負のスパイラルってのが問題ですよね。
加速がついて思ったより早く悪化するので。。。
今の世の中、考えないで済むようになりすぎだなあと思います。
IT系の仕事をしていると、ごく基本的な命題が自動化とか仮想化だったりするんですが、最近どうもそれじゃまずいなと思うようになってきました。
便利にしようという努力はいいんですが、それが社会に与える影響について無頓着過ぎるのですね。
今よりもう一歩か二歩先を見ることが必要で、環境問題に対応するというのはそういうことなんでしょうけど、エコってやつも結構思考停止ネタなんですよねえ。。。
ダークサイドを考えることができるというのはいいことですよ。じゃないと自分の中の価値基準ができないと思う。これってクリエイティブな人の資質のような気がします(^^)。
投稿情報: んちば | 2008/06/05 20:41