販売・生産中止になった、もしくはなる予定の製品で、一番残念に思っている製品を教えてください。
S&Bの「スパイシーリッチカレー」。売っている店が限られていて、見つけたときに必ず買っていたんだけど、いつの間にか見かけなって、思いあまった(言い過ぎ)家人がS&Bに問い合わせたら、すでに生産中止になっていたのだった。
うちのカレーはスパイスやらなんやらの謎の材料を追加して味を調整している(らしいのだがそのレシピは秘密とされている)のだが、そのベースが変わるとまた配合を考え直さなければならない(らしい)のだな。
で、昨日は同じS&Bの「王室料理人の地中海カレー(辛口)」をベースとしたが、無事に今朝までに売りきれたのだった。
ふーんそうなのかあ。あまり外国とは縁がないですが、覚えておきたいと思いました。
である。語彙不足はファシズムを生む
様々な情報を定期的に配信するメールマガジン。何か購読しているメールマガジンはありますか?
たくさん登録してはあるものの、ほとんど読まずに捨てているメルマガばかりのなかで、楽しみにしているのが「NIKKA倶楽部メールマガジンFrom the Barrel」。
なかでも「竹鶴 威 の回想録『ニッカウヰスキーと私』」というコーナーが大好きで、欠かさず読んでいる。
ブレンダーならではの視点とか、ニッカ創業者の竹鶴政孝(この回想録の筆者の父)のこととか、読むとウイスキーがうまくなる話ばかりなのだ。
琥珀色を片手にウイスキーの薀蓄をあたためるのもなかなか良いものですぞ(^^)。
こういううれしい動きがあって、遠くのコミュニティFMが聴けるようになる。まだインターネット上の著作権問題がうるさくなる前にはいくつかのコミュニティFM放送がインターネット配信をしていて、わりとよく聴いていた。本当に地域密着なCMが入っていたり、ローカルな告知があったりしてなかなか楽しかったのだ。
で、著作権問題でほとんどネット配信はできなくなった。続けたところも放送とは別編集にせざるを得ず、しかも音楽抜きというまったく魅力のないものになっていった。ラジオから音楽をとっちゃったらそれは死んだメディアも同然だし。
その間に地道な努力が続いていたようで、やっと配信が「合法的に」できるようになったのだな。
徐々に変化してきているけど、著作権管理は制限主体じゃなくて利用主体の発想に移る必要があると思う。なんだかんだ言っても聴いてもらって、観てもらってナンボだし、これからはそれに一般に広く使ってもらってナンボって形にしたほうが収入が確保できると思うのだ。ブログで曲の紹介に使うなら月額いくらとか、それなりに合理性のある値段がついていたら一般の人の中にもお金を払う人はいると思うのだ。それは今までにない収入源だ。
話がそれてしまった。
コミュニティFM。ラジオ世代の人も、ラジオ衰退期の人も、聴いてみると新たな発見があるかもしれない。
SimulRadioは、6月以降チャンネルが増えていく予定らしい。今後の展開に期待。
ちなみに今は札幌の「三角山放送局」を聴きながらこれを書いている。ウチは札幌市内だけどこの放送はラジオじゃ受信できない。インターネットなら東京でも沖縄でもアメリカでも聴けるってのはなかなかおもしろいよね。
スパムメールやスパムコメントに困った経験はありますか?一番大変だった事は何ですか?また、スパムなのに思わず笑ってしまった事も教えてください。
ブログが始まった頃、自分でブログシステムを立ち上げて使い始めて、スパムコメントには悩まされた。初期のMT(最近のは知らない)は各エントリがスタティックなhtmlドキュメントだけだったから、スパムコメントが書き込まれる度にページが再生成されるので、非力な(というかやたらと重たい)レンタルサーバだとリビルドに失敗してページが見えなくなったりして厄介だった。そう。スパムコメントを消すときにもリビルド処理が走るから、大量のスパムコメントはDBを直接アクセスしてデータを消してから全件リビルドなんてことをやったりして、タイムアウトに苦しんだりしたものだった。
トラックバックはもう途中から諦めて、受付を完全に停止してしまった。
今でも一応自分でいじることができるブログシステムは維持しているけど、スパムフィルタのようなものがあるから昔よりずいぶん運用が楽になったと思う。
メールのほうは、Gmailを使うようになってスパムで悩むことはほどんどなくなった。デスクトップのメーラはスパムフィルタのメンテナンスが面倒で今は使う気にならない。
たまに間違ったメールが落ちていないか確かめるためにGmailのスパムフォルダを見るんだけど、とてつもないネットワークリソースの浪費だなあと思う。メールの仕組みを抜本的に変えない限りこの浪費は続くんだろうなあ。
僕がコンピュータの勉強を始めて間もない頃、「人工知能」という一種のバズワードが流行していた。
当時の人工知能は今のソフトウエア技術の水準からすれば未成熟なんてレベルにも達しているものではなく、今考えればRDBとSQLの組み合わせよりも幼稚なことしかできない知能であった。
数値ではなくテキストや論理を扱うLispとかPrologのような言語が「人工知能言語」としてもてはやされ、新しいプログラミングパラダイムとしてのオブジェクト指向が芽を出した頃だった。
僕はこのバスワードに夢中になって、LispやPrologの書籍を読み漁っていた。人工知能というキーワードに関係する書籍はかたっぱしから読んだりもしていた。
まだ誰でもコンピュータを使える時代ではなく、言語も自由に手に入る時代ではなかったから、そのころはプログラミングよりも本を読んでいろいろ考えを巡らせることが主体の勉強だった。
そんな僕の頭にふと思い浮かんだのが、以下のような疑問だった。
「間違えるプログラムは作れるのだろうか?」
もちろんプログラミングされた「間違い」は間違いのうちに入らない。それはプログラミング的に正しい答えを出しているだけのことだ。人間のように間違えるプログラムとはどんなものなのだろう?と思ったのだ。
この疑問は今でも頭の隅にあるのだが、要するにプログラムの一種の限界に対する認識なのだと思う。
この疑問を言い換えると「計算可能」ということになる。現時点でのITがソフトウエアの囲みの中にいるうちはこの「計算可能」な世界に止まることになってしまう。バーチャルな世界にのみ突き進もうとするIT世界はそこから逃れることはできない。
では、「計算可能」な世界から逃れるためにはどうしたらよいのか。それはITと現実の世界との接点をもっと密接にし、ソフトウエアの世界で常識となっている限界に甘んじることなく現実世界を拡張するITを目指していくことなのだろう。
そういう意味でITアーキテクトは「計算不可能性」を設計する存在でなくてはならない。
IT技術者は自己完結しがちで、現実との接点が希薄になる傾向がある。そこから脱却するには、ひたすら「現場」と接しながらそこで行われていることをITで進化させる必要がある。そして、そのアーキテクチャは社会学的な知見なくしてはまともに設計ができないのだから、社会学的な批判にさらされて鍛えられる必要がある。
社会学者である宮台真司の言葉は高度に抽象化されて理解しにくいが、彼が発する疑問に対して答える神成淳司の言葉はITの現場の現実に裏付けられてわかりやすい。社会学的な問題意識をもってアーキテクチャを設計しつづけているから的確な答えが返せるのだ。
とはいえ、一度読んだだけでは理解できない本である。
ただ、ITとは単にコンピュータ活用ではないはずだという僕自身の問題意識に対して、回答のある方向を示してくれたように感じる。
さらに学ぶべきことが増えた。そういう意味で僕にとって得がたい本である。
計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦 (That’s Japan)
神成 淳司 宮台 真司
by G-Tools
釣りをした経験はありますか?釣堀、海釣り、渓流釣りなど色んな釣りがありますが、どれが一番好きですか?経験がない人は釣りのイメージを教えてください。
僕が好きなのは波止釣り。それも比較的短い竿を使ったちょい投げ。
夏頃から小樽港でハゼを釣るのがなかなか楽しい。数メートルの範囲に投げてちょいちょいと仕掛けを引っ張っているとクイっと引く。あのアタッた瞬間がたまらなくて、一日中立ちっぱなしも苦にならない。
仕掛けはいろいろ使うけど、やっぱり地元の釣具屋さんが作っている仕掛けが一番釣れるような気がする。
今年ももう少し暖かくなったら行きたいと思っている。
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